吾輩は猫である──という文学作品をご存じだろうか? 恐らく、日本人の99%はこの作品に触れたことがあるはずだ。いや、外国人であっても、熱心な読書家であれば “I am a Cat” を読んだことのある人を見つけることができるであろう。本紙記者も、夏目漱石先生の大ファンであり、本作品についても何回も読み返している。
恐らく多くの読者にとって、細かい解説などは釈迦に説法であろうが、とはいえ大昔に読んで以来、内容を忘れてしまった読者もいるであろうから、大まかなあらすじをまとめる。
『吾輩は猫である』とはどんな作品か
まず、主人公は猫である。彼は細かい経緯は不明なものの、気が付くと人間界の一角にのそのそと入り込んでしまったのだ。そうこうしているうちに、ある教師の家に入り込み、最終的にはその家の飼い猫となり、様々な体験をしながら人間界について猫の慧眼をもって見識を深め、ああでもないこうでもないと自説を開陳する、という物語である。
まったくもってシンプルであり、新聞小説らしく、その中身は娯楽性の高いものだ。しかし、そんな小説を、なぜ、いま読むべきなのだろうか? なぜ、『坊っちゃん』や『高瀬舟』ではいけないのか? その二つの問いに、猫君は答えてくれる。
そう、猫君によって書かれた明治時代の世情観察記であるからこそ、読む価値があるのである。むろん、正確性では政府の統計資料を引っ張り出して読むべきなのだろうが、それではあまりに味気ない。
かと言って、その他の文学作品を通して明治時代の生活というものを見通すことは難しいと言わざるを得ない。なぜならそれらの多くは生活の一部を切り取って主題としているから、生活全般を俯瞰することは難しい。いや、日記でも良いではないかと言われるかもしれない。しかし、日記も同じことである。日記は主観的視点によって執筆されるものであり、やはり記録者の中で印象が残る部分を強調してしまう。
なぜ「今」読むべきなのか
そしてもう一つの問い、なぜ今読むべきなのかについてだ。それはすなわち、今、世界情勢が緊迫し、先が見えないからこそ、明治時代に存在した、平和で豊かな暮らしを知り、今と対比してほしいのである。
明治もまた、戦争の時代であった。平和な暮らしと言っても、生活全体のほんの一部であることは否めない。しかし、ウクライナにも平和な日常という瞬間は確かに存在する。問題は、それが戦争によって断絶してしまうことである。
本作にも、日露戦争の描写が出てくる。しかし、それはどこか遠い世界の話のようにも見えるのだ。それは今の世界についても言えることではないだろうか。今も戦争は世界中で継続しているが、それを認識することは難しいし、平和な日常は確かに存在している。
読者諸君にとって、猫君の示唆に富む観察が何らかの形で資することがあれば幸いである。